El Alamein: Battlefield, Museum and Coast
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エル・アラメイン観光:戦場跡・博物館・地中海沿岸

エル・アラメインのガイド。1942年の戦い、7,240基の墓が並ぶ英連邦戦没者墓地、ドイツとイタリアの記念碑、戦争博物館、そして2026年にマリーナで見つかった18基の墓まで紹介します。

2026年10月19日12 分で読める

アラメイン記念碑の平らな屋上から南を眺めると、砂漠の斜面に淡い色の墓石が何列も何列も並んでいます。芝生も花壇もなく、あるのは砂利と低い灌木、そして墓石だけです。振り返れば、北には信じられないほどのターコイズ色をした地中海が帯のように広がっています。1942年の秋、この2つのあいだで、英第8軍とロンメル率いるアフリカ装甲軍が、北アフリカの戦局を一変させる戦いを繰り広げました。

今日のエル・アラメインは、3つの顔を同時にもつ場所です。ひとつは戦場跡と記念碑で、今も家族の名前をたどる人々や、実際に地形を歩く歴史家が訪れます。もうひとつはリゾート地帯の下に眠るギリシャ・ローマ時代の町で、2026年にはエジプトの考古学者たちが18基の墓を発掘し、そのなかには封印されたままのものもありました。そしてもうひとつがニュー・アラメインです。高層ビルとビーチクラブが立ち並ぶこの街は、毎年夏になるとカイロからの家族連れでにぎわいます。

このガイドでは、その3つすべてを取り上げます。ここで何が起き、なぜそうなったのか、墓地や記念碑、博物館の訪ね方、今年マリーナ・エル・アラメインで何が見つかったのか、そしてアレクサンドリアからの日帰り旅行で無理なくすべてを見て回る方法です。

ひと目でわかる基本情報

場所: エジプトの地中海沿岸。アレクサンドリアの西約106km(66マイル)、カイロから250〜300km

戦い: 第一次エル・アラメインの戦い(1942年7月)、アラム・ハルファの戦い(1942年8月30日から)、第二次エル・アラメインの戦い(1942年10月23日〜11月4日)

英連邦戦没者墓地: 英連邦の戦死者約7,240人が埋葬され、アラメイン記念碑には行方不明者約1万1,900人の名前が刻まれている

ドイツとイタリアの記念碑: 海岸道路を数km西へ行った場所に、それぞれ海を見下ろして立つ

戦争博物館: 1956年創設、1992年と2014年に改装。毎日9時〜17時開館と伝えられている

マリーナ・エル・アラメイン: ヘレニズム時代からビザンツ時代の町。これまでに44基の墓が発掘され、2027年の一般公開に向けて準備中

アクセス: 車でアレクサンドリアから約2時間、カイロから約3時間

ベストシーズン: 戦場跡は10月〜5月、ビーチは6月〜9月

入場料: 戦没者墓地は無料

1942年、エル・アラメインが重要だった理由

エル・アラメインを決定づけたのは地形でした。エル・アラメインの鉄道停車場から南へ約64km(40マイル)のところには、塩性湿地と軟らかい砂からなる広大な盆地、カッターラ低地が広がっており、機甲部隊の縦隊は通り抜けることができませんでした。この低地と海とのあいだには、西方砂漠で唯一、南から迂回されることのない防衛線があり、それはアレクサンドリアと、その先のスエズ運河からわずか100km余りの位置にありました。ここを押さえた者がエジプトを押さえたのです。

1942年の夏、英第8軍はこの線まで後退し、7月を通じて戦われた第一次エル・アラメインの戦いで、ロンメルの進撃をここで食い止めました。8月30日からアラム・ハルファで再開された枢軸軍の攻撃も撃退されました。そのころには第8軍の指揮はバーナード・モントゴメリーが執っており、彼は9月を兵員、戦車、物資の増強に費やしました。一方、ロンメルの部隊は、およそ50万個の地雷を敷設した地雷原の帯、いわゆる「悪魔の園」の背後に陣地を築いて立てこもりました。

第二次エル・アラメインの戦いは、10月23日の21時40分、約1,000門の砲による一斉砲撃で幕を開けました。連合軍はおよそ19万5,000人の兵と1,000両を超える戦車を投入し、枢軸軍の約11万6,000人と547両の戦車に対峙しました。工兵たちは砲火のなかで地雷原に通路を切り開きましたが、モントゴメリーが初日の夜に計画していた突破は実現せず、戦いは10日間の消耗戦となりました。11月2日の未明に開始されたスーパーチャージ作戦によって、ようやく枢軸軍の戦線は崩れました。11月4日にはロンメルは西へ退却していました。1週間もしないうちに、チャーチルはロンドンで、これはおそらく終わりではなく、終わりの始まりですらないが、始まりの終わりではあるだろうと語りました。

英連邦戦没者墓地とアラメイン記念碑

英連邦戦争墓地委員会(CWGC)が管理するエル・アラメイン戦没者墓地は、町のすぐ西、尾根の裏斜面にあります。サー・ヒューバート・ワージントンが設計した20ヘクタールの砂漠の墓地です。西方砂漠の戦役のあらゆる段階で亡くなった英連邦の戦死者約7,240人が埋葬されており、そのうち約815人は身元不明です。ほかに、ほかの国籍の戦没者の墓も100基ほどあります。英国、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インドをはじめ、英連邦の多くの国の兵士や航空兵がともに眠り、そのなかにはヴィクトリア十字章の受章者4人も含まれています。

墓地の北端を成す記念碑は、1954年10月24日にモントゴメリー自身によって除幕されました。回廊のパネルには、墓の所在がわからない兵士と航空兵約1万1,900人の名前が刻まれています。陸軍はエジプトとリビアでの戦役の戦死者、空軍は中東と地中海全域の戦死者です。南東の隅にある別の火葬者記念碑には、信仰に従って火葬された600人余りの兵士が追悼されています。

墓石の列のあいだをゆっくり歩いてみてください。多くの墓石には、家族が選んだ短い個人的な碑文が刻まれています。その一行は、どんな統計よりもこの場所の意味を伝えてくれます。

知っておくとよいこと:戦没者の墓を訪ねるとき

墓地への入場は無料で、通常は毎日9時から16時まで開いています。親族の墓を訪ねる場合は、出発前にCWGCのオンライン記録を検索しておきましょう。区画、列、墓の番号がわかるので、暑さのなかを歩き回らずに済みます。

服装はほかの墓地を訪れるときと同じように整え、声を落とし、記念碑の壁に登ったり墓石に腰掛けたりしないでください。小さな花輪や数本の花を手向けるのは歓迎されますが、風で飛ばされるようなものは置かないようにしましょう。光が最もやわらかいのは、開門後の最初の1時間と閉門前の最後の1時間です。

ドイツ、イタリア、その他の記念碑

ほかの記念碑は、町の西に延びる海岸道路沿いのおよそ10kmにわたって点在しています。エル・アラメインへの分岐点の近くにはギリシャと南アフリカの記念碑があり、英連邦墓地へ向かう道の途中にはオーストラリアの記念碑があります。そこから少し西には、枢軸軍がエジプト国内で最も深く進撃した地点を示すイタリアの標識が立っています。

ドイツの記念碑は、テル・エル・エイサ近くの道路の北側、低い尾根の上に立っています。ローベルト・ティシュラーが設計した八角形の要塞で、直径42m、高さ12m、四隅に塔があります。1959年10月28日に除幕され、中庭を囲む納骨室に約4,200〜4,300人のドイツ兵の遺骨が納められており、その名前がブロンズの銘板に記されています。同種の記念碑としては世界でも最も簡素で厳かなもののひとつで、壁の上から見渡す海岸の眺めは広々として静かです。

さらに西へ約5km行くと、海を見下ろす丘の上にイタリアの記念碑の白く高い塔がそびえています。この戦いに従軍した技術者で作家のパオロ・カッチャ・ドミニオーニの設計により、1954年から1958年にかけて建てられました。約5,200基の墓があり、その多くには「ignoto(身元不明)」と記されています。礼拝堂と、地図や写真、遺品を展示する小さな博物館があり、解説の多くはイタリア語です。正面の石には、欠けていたのは運であって勇気ではなかった、という意味のイタリア語の言葉が刻まれています。

エル・アラメイン戦争博物館

博物館は町の外れ、主戦場の近くにあります。1956年12月16日に創設され、戦いから50年となる1992年10月に改装されたのち、2014年10月に新しい展示で再オープンしました。エジプト、英連邦、ドイツ、イタリアそれぞれから見たこの戦役を扱う展示室と、戦闘の模型や地図を集めた共通の展示室があり、軍服、勲章、武器、私物も並んでいます。屋外には戦車や大砲、トラックが置かれた展示場があり、なかには戦闘の損傷が残るものもあって、子どもたちの記憶にいちばん残るのはここです。

毎日9時から17時まで開館していると伝えられていますが、予告なく閉館したこともあるため、当日の朝にガイドに確認してください。復元された司令部の地下壕は、管理人に鍵を開けてもらう必要がある場合があります。入館料は手ごろですが、頻繁に変わるため、ここでは金額を記しません。エジプトポンドを持参してください。所要時間は60〜90分です。

警告:道から外れないでください

1942年の地雷原は、完全には除去されていません。エジプトに残る第二次世界大戦の地雷は、西方砂漠全体で数百万個に上ると推定されており、戦後8,000人以上がその犠牲となって死傷しています。除去事業によってエル・アラメイン周辺の広い地域が開発のために解放されましたが、記念碑のあいだや周囲に広がる砂漠は、ぶらぶら歩き回るような場所ではありません。

舗装道路、標示のある小道、記念碑の敷地内から外れないでください。オフロードを走らないこと、どれほど錆びていて無害に見えても金属片を拾わないこと、写真を撮るために砂漠へ続く轍をたどらないことです。キドニー・リッジなどの場所を訪れる本格的な戦場ツアーは、専門のドライバーが既知のルートを走り、軍の許可を得たうえで行われます。だからといって通常の見学が危険なわけではありません。道があるのには理由がある、というだけのことです。

マリーナ・エル・アラメイン:リゾートの下のギリシャ・ローマ時代の町

1986年、マリーナ・リゾートの造成を進めていたブルドーザーが、アレクサンドリアの西約100kmの地点で壁や墓を掘り当て、そこから姿を現した町は、以来ずっと考古学者たちを夢中にさせてきました。地理学者ストラボンが言及した海辺の集落、古代のレウカスピスだと広く考えられています。ヘレニズム時代に築かれ、ローマ支配下で栄え、紀元1世紀から3世紀にかけて最盛期を迎えました。5世紀と6世紀にもまだ人が住んでおり、そのころには町の東地区に小さなバシリカ式教会が建っていました。

ポーランド、アメリカ、エジプトによる数十年にわたる発掘と保存作業によって、50を超える建造物が明らかになっています。住居、浴場や市場、公共のバシリカを備えた町の中心部、港湾施設、そして岩窟墓と石積みの墓からなる墓地です。ある側室からは、鉛の棺とミイラが見つかりました。損傷の一部は、紀元3世紀後半の地震によるものではないかと考えられています。プトレマイオス朝とローマ時代の海岸のより大きな歴史については、クレオパトラの歴史のガイドや、アレクサンドリアのグレコ・ローマン博物館の収蔵品がよい手がかりになります。

2026年のマリーナ・エル・アラメインでの発見

2026年7月4日、観光・考古省は、遺跡責任者イマン・アブデル・ハレク率いるエジプトの調査隊が新たに18基の墓を発掘し、この遺跡で発掘された墓が計44基になったと発表しました。11基は地下約8mに達する岩窟の地下墓(ヒポゲウム)で、7基は地上に石灰岩で築かれた墓です。いくつかの埋葬室は、当時の石板で封印されたままでした。

出土品は目を見張るものです。長さ2.5mの花崗岩の石棺は蓋が閉じたままで、中の人骨は現在調査中です。死者の口には24点の黄金の葬送品が納められていました。来世で話せるようにするための、いわゆる「黄金の舌」です。あわせて、珍しい黄金のホルスの目のお守りも見つかりました。ほかにも、漆喰製のスフィンクスの破片、アフロディーテを表したと考えられる未完成の大理石像、鳥を手にした座る男性を描いた石灰岩の石碑、偽扉のある供物台、ガラスの涙壺、アンフォラ、オイルランプ、そして後に埋葬用の竪坑に転用された古い井戸がありました。これらはエジプトの葬送信仰とギリシャの趣味が隣り合って共存していたことを示しており、それこそがこの海岸全体の個性です。エジプトの最新の考古学的発見のまとめでは、この発見を今年のほかの発見とあわせて紹介しています。

見学はできるのでしょうか。今のところ、通常は見学できません。発見と同時に発表された整備計画には、ビジターセンター、電動カート、遊歩道、博物館の収蔵庫、野外劇場が含まれ、完成は2027年前半の見込みです。マリーナ・エル・アラメインの公開時期はこれまでにも発表されては延期されてきたため、2027年は約束ではなく目標と考えてください。

ニュー・アラメインと夏の海岸

戦場跡の東にあるニュー・アラメインは、2010年代後半から急成長し、高層ビル、ホテル、海岸通り、夏のコンサート会場を備えた本格的な都市になりました。リゾートが続く海岸、通称サーヘルはアレクサンドリアから西へ延び、場所はキロメートル標識で示されます。中心となるのはKm100のマリーナ周辺からで、高級ビーチクラブやゲート付きのリゾート住宅地が集まるシディ・アブデル・ラフマーンとマラーシは、Km124〜144あたりにあります。海岸線の多くはプライベートビーチなので、タオルを持って出かける前に日帰り利用のルールを確認してください。

アラメイン国際空港は、今や本格的な玄関口になっています。2026年夏には、エティハド航空、フライドバイ、サウディア、フライナス、エア・カイロなど15の航空会社が就航し、その多くは季節運航でした。当局は2026年のアラメインへの訪問者を、前年の約17万人から増えて約30万人と見込んでいました。さらに西では、巨大なラス・エル・ヘクマ開発が建設中で、最初の地区は2028年に開業する予定です。

シーズンは短く、熱気に満ちています。おおむね6月中旬から9月中旬までで、ピークは7月、8月、そしてイードの休暇期間です。この時期は料金が上がり、週末の始まりと終わりには毎回海岸道路が渋滞します。それ以外の月のニュー・アラメインは静かで、閉まる施設もありますが、主に歴史を目当てに訪れる人にはむしろ好都合です。

エル・アラメインを訪れるベストシーズン

戦場跡を巡るなら、10月から5月の涼しい時期が最も快適で、穏やかな日が続き、光も澄んでいます。冬は海からの風が強く、ときおり暴風雨にも見舞われるので、羽織るものを1枚持っていきましょう。夏は焼けつくような暑さというより蒸し暑く、記念碑にはほとんど日陰がなく、海岸道路も最も混み合います。地域ごとの詳しい情報は、エジプトの月別天気のガイドをご覧ください。

10月は特別な重みをもつ月です。毎年、第二次エル・アラメインの戦いの記念日前後に、主に各国大使館の主催で追悼行事が行われ、国際的な追悼式典は、ドイツ、イタリア、英連邦の各記念施設をおよそ3年ごとに持ち回りで会場としています。84周年にあたる2026年10月17日(土)には、ギリシャの国防副大臣が、1942年に戦死したギリシャ第1旅団の89人を悼んでギリシャの記念碑に花輪を捧げ、ドイツとキプロスの大使も参列しました。正確な日程の発表は直前になることが多く、公式式典の最中は記念碑への立ち入りが制限される場合もあるため、日程を決める前に当社に確認をご依頼ください。

プロの助言:西から東へ回る

いちばん遠い場所から始め、アレクサンドリアへ向かって戻ってくるように回りましょう。朝早く出発してまっすぐイタリアの記念碑へ向かい、その後ドイツの記念碑、英連邦墓地、博物館の順に訪ねます。日差しを遮るもののない場所を涼しいうちに見学でき、太陽が最も高くなるころには博物館で過ごせて、帰りの道のりもすでに短くなっています。

昼食には、夏の混雑期を除けば、ニュー・アラメインの海岸通りのレストランやホテルが最も手軽です。1時間の余裕があれば、帰り道に幹線道路から少し外れたところにある、初期キリスト教の巡礼都市アブ・メナの遺跡に隣接するコプト教の聖メナス修道院についてドライバーに尋ねてみてください。古代末期に関心のある人なら、寄り道する価値があります。

アレクサンドリアからの日帰り旅行の計画

エル・アラメインを最も快適に見て回るには、アレクサンドリアからプライベートカーとガイドで丸一日かけるのがいちばんです。片道約2時間、現地で4〜5時間を過ごし、夕食までにはコルニーシュに戻れます。カイロからも砂漠の幹線道路を使って片道約3時間なので日帰りは可能ですが、海岸で1〜2泊する旅の一部にしたほうがずっと楽しめます。アレクサンドリアの街そのもの、カイトベイの要塞、カタコンベと組み合わせれば、充実した2日間になります。街についてはアレクサンドリア日帰り旅行ガイドで紹介しています。

事前に予約したカイロからアレクサンドリアへの送迎を使えば、手間なく海岸へたどり着けます。また、カイロとアレクサンドリアの見どころを巡る4日間ツアーにエル・アラメインでの1日を加えることもできます。さらに砂漠へ向かうなら、エル・アラメインは西へ向かう道のちょうど途中にあるため、当社のカイロからシワへのプライベート送迎では、途中で墓地に立ち寄ることができます。

親族の墓をお探しの場合は、わかる範囲で名前、所属部隊、亡くなった日付をお知らせください。その墓を中心に一日の計画を立てます。お問い合わせいただければ、そこから先はお任せください。

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